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昨年末、刊行された経済学者の中谷巌の本「資本主義はなぜ自壊したのか 「日本」再生への提言 」が波紋を広げている。この本では米国流の金融資本主義が批判の俎上に上げられているが、そこに書かれている内容よりも、この本において新自由主義的経済学の旗振り役と目されていた中谷が、米国流の経済学から決別し、180度「転向」を表明していることが話題になっているのだ。現在発売中の週刊朝日にも登場し、「改革が日本を不幸にした」と中谷は懺悔している。

中谷巌は、米国の70~80年代を席巻した市場原理を重視した経済理論の日本への紹介者で、マル経(マルクス経済学)とケインズ経済しかなかった当時の日本に米国流の市場原理に基づくプラグマティックな経済理論を持ち込み、小渕内閣の首相諮問機関「経済戦略会議」の議長代理を務めるなど、経済政策ブレーンとして中心的役割を果たした。中谷のつくった道筋は、小泉内閣の竹中平蔵氏に受け継がれ、郵政民営化や規制緩和による小さな政府の実現をめざすという「構造改革路線」に繋がっていく。1999年にソニーの社外取締役に就任するが、人事院から国立大学教授の身分で私企業の役員になることが問題視されるとさっさと一橋大学教授の職を辞して、米国の学者のようにアカデミズムの世界から民間に転じるなど、正に米国スタイルを実践してきた人物であった。その中谷が、「週刊金曜日」という雑誌の中で佐高信のインタビューを受けてそうした「米国流」の自分を自己批判している。

佐高:12月15日に出された新著のタイトルが興味深いですね「資本主義はなぜ自壊したのか」という中谷:懺悔の書です(笑)。佐高:なぜ考えが変わったのですか。佐高:新自由主義的な考え方は、日本の伝統に合わないのです。日本は縄文時代から1万2000年も島国の中でお互いに折り合いをつけ、配慮しながら生活する知恵をつけてきました。つまり社会を重視してきた国です。それに対し、新自由主義は、歴史を断ち切ったアメリカ人たちが、個人個人で市場の中で折り合いを付けていく、という流れから出てきています。かつてアメリカに留学して経済学を勉強したとき、あまりにも見事な理論体系に魅了されました。・・・・論理の美しさに惹かれて私はアメリカかぶれになった。一方、日本では談合や系列、癒着など負の面が目についた。構造改革が必要と思い、旗振り役になってしまった。

ここまで、身も蓋もない自己批判を行っているのだから、その新著には、米国流から脱却した新しい経済理論や経営論が展開されているのだろうと半分期待しながら、正月の休みにその本を読んでみたのだが、全くの期待はずれだった。かつては、内閣のブレーンとして日本経済の舵取りに大きな影響力を与えた人物が、それまでの自分を全否定して著した本がこの程度のものでは、中谷を信用して後をついていった人々は正に裏切られた思いだろう。

借り物の理論から別の借り物にジャンプしているだけ

中谷の立場は、上に紹介した週刊金曜日のインタビューの内容に全て集約されている。要は、米国流の新自由主義的経済理論にかぶれたが、市場原理に基づく米国資本主義が沈没しそうだから、この際、自分はその泥船から乗り換えると言っているに過ぎず、そこには自分の頭で物事を考えた痕跡が何も見えない。借り物の理論から別の借り物の理論にジャンプして見せているだけという意味で、この本に書かれている「転向」論は、論理的にも倫理的にも全くお粗末極まりないものとしかいいようがない。欧米のアカデミズムの世界でこんな形の「転向」を表明したら、軽蔑されて一顧だにされないだろう。しかし、よくよく考えて見ると、海外でもてはやされている「理論」を輸入し、それを流行の服を着替えるように鏡の中の自分にあれこれ合わせてみるというのは、日本の人文系アカデミズムが明治以来疑いもなくずっとやり続けてきた「伝統」でもあった。理論の背景にある本質は、とりあえず横に置いて、表層的な「技術」だけを真似するというのが「和魂洋才」という言葉のそもそもの意味でもある。私などは、ここで表明されている「日本の伝統に合わない」から、それまで信奉してきた考え方を捨てるという中谷の言い方にはひどく違和感を覚えるが、彼にとっては、海外から持ち込んできた理論やイデオロギーをスイスイ乗り換えて見せることは不自然なことでも何でもないのだろう。もっといえば、「懺悔の書」としてこの本を書いたことで、米国の理論に「かぶれていた」段階から、「日本の伝統」を重視するという、日本人としてより地に足のついた自分に脱皮できたと中谷は考えているふしさえある。

新自由主義に対する非難の大合唱



米国流の行き過ぎた金融資本主義、そして、それを推進した新自由主義的な考え方に対する批判が、世界的な経済危機をきっかけに噴出し、日本では大合唱のようになっている。米国流金融資本主義を批判するところまでは、良しとしても、問題はその先である。グローバル化する世界の中にあって、破綻した米国流の金融資本主義に代わる強力な理念、ヴィジョンを打ち出せるかどうかが、知識人には求められているのだが、中谷が提出している答えらしきものは、単なる「日本回帰願望」に過ぎない。この本の第6章では、「今こそ、日本の『安心・安全』を世界に」というタイトルが掲げられ、島国で侵略を受けて来なかったという歴史のもとで日本人がいかに平和友好的な民族であったか、また長期の互恵戦略にいかに長けた国民であったかということが強調され、日本文化、日本人のメンタリティの素晴らしさを世界に提示していくことが今後のヴィジョンとして臆面もなく語られてている。新自由主義的な「自由と挑戦」を唱えていた人物が、今度はその正反対の「安心・安全」という旗を掲げているわけだから、中谷の後を追ってきた人々にして見れば、悪い冗談でも聞かされているような気分だろう。

中谷の「転向」論に欠落する「自由」への視座



中谷の「転向」論ですっぽりと抜け落ちてしまっているのは、「自由」にたいする視座だ。中谷が信奉した新自由主義的経済理論の背景には、米国のリバタリアニズムの地盤がある。米国の建国の歴史が、正に自由を求めて新大陸に渡った人々から始まったように、自由というものを個人のレベルに限らず経済活動など社会レベルでも最大限に尊重するというのがリバタリアニズムの理念だ。リベラリズムも個人の自由を尊重する点では同じだが、左派リベラリズムのように富の再配分を通じた結果の平等を求めず、機会の公正や自由競争を重視するのがリバタリアンの特徴である。

米国のリバタリアンであるデービット・ノーランが、ノーラン・チャートという政治思想の概念図を作っているが、これを見ればわかるように、個人の自由と経済活動の自由を共存させ、最大限に尊重する領域にリバタリアニズムが成立する。大きな政府よりも小さな政府を、公的セクターよりも民間の活力を、福祉よりも自助努力を求めるというのが、新自由主義の考え方だが、その底流には、自由であることを何よりも重んずる、こうしたリバタリアニズムの思想が流れていることを理解する必要がある。

ところで、自由であることは、人間にとって必ずしも幸せなことではない。気心のわかった連中と仲良く暮らすことの方が、誰にとってもストレスが少なく、一般的には幸せであることに違いない。逆に、そうしたコミュニティ(群れ)から離れることが、自由であることを意味するならば、自由には、常に孤独と不安がつきまとうといえるだろう。しかし、それでも自由を追い求めるのが人間という存在のもうひとつの本質でもあり、だからこそ、サルトルは、そうした自由を求める人間の姿を「自由の刑に処せられている」と表現したのだ。

「安全・安心」とは砂漠の蜃気楼のようなもの



私自身も自分の人生ができれば「安全・安心」に満ちたものであって欲しいと願っている弱い人間の一人にすぎないが、それ自体を人生の目標にしようなどとはさらさら思わない。中谷の「転向」論の決定的な欠陥は、「安全・安心」という、砂漠の蜃気楼のようなゴールを示し、それが、あたかも「日本回帰」することで手に入れられるかのような錯覚をふりまいている点にある。そして、こうした中谷の議論は、二重に人々をミスリードするものだろう。第一に、この世界は、次の時代に向けて脱皮するための新たな産みの苦しみの時代に入っていて、特権的な「安全・安心」な場所などは、日本はもちろんのこと、もはやこの世界中のどこにも存在しえないのであり、安全・安心という蜃気楼は、そうした厳しい現実を隠蔽することにしかならないということだ。加えて、日本回帰という安易な方向性を示すことで、ただでさえ内向きなこの国をさらに自閉させ、結果的には閉塞感をますます募らせることになるだろう。

国境を越えて動き回るグローバルマネーの流れは、もはや誰にも押しとどめることができない。今更、鎖国時代に戻ることなどできず、グローバル資本主義以外の経済体制を選ぶというような選択肢そのものがありえない。そして、今、世界を覆っている経済恐慌の根本的な要因は、そうしたグローバルマネーに対して、国家単位の対応では、それが例え米国のような巨大国家であっても対処できなくなったことにある。今回の危機を10年後にふり返った時、歴史は、リーマンブラザースが破綻した日をグローバルマネーというモンスターが米国という超大国のパワーを凌駕した日として記憶にとどめられることになるだろう。

新自由主義が中産階級崩壊の元凶か?

前回のエントリー記事でレポートした年越し派遣村は、マスコミも大きく取り上げ社会問題化したが、マスコミの論調にも「新自由主義」対する批判が目についた。具体的には小泉内閣時代に施行された派遣法の改正など、規制緩和に批判の矛先が向かっていたが、日本の中産階級が小泉構造改革によって崩壊し、格差が拡大したかのようにいうのはお目出度すぎる結論だ。ここでも根本的な要因は、経済のグローバル化にある。中国をはじめ新興国が世界の製造業の中心地となり、工業労働力の需要も国外へと大きくシフトした。世界競争に晒されている製造業は、コスト競争に打ち勝つためには、工場を海外にシフトするか、国内の労働コストを下げるしか道はない。その帰結として中産階級が従事していた仕事が減少するということが、先進諸国に共通した現象として生まれたのであり、日本では最低賃金を現在のようにワーキングプアを生み出すようなレベルに設定したり、日雇い派遣を認めるなど、明らかな政治の失敗もあったが、国内の経済政策の如何に関わらず、格差の拡大や中産階級の崩壊は避けようのない現実であったとまず認識することが必要だろう。

大きな問題は、この間、政治の対応が余りにお粗末だったことだ。前回のエントリー記事でも触れたが、厚生労働省が雇用のミスマッチを解消するためにおこなったことといえば、「私の仕事館」のような役立たずのハコモノを580億円もかけて建設し、毎年10億円もの赤字をたれ流すようなことであり、本来、セーフティーネットの整備に使われるべき税金が、ゼネコンの懐を肥やしたり、役人の天下り先の確保に使われてきたといっても過言ではない。派遣労働者の人々が、その身分ゆえにに、先ず最初に雇用を切られてしまう悔しさは痛いほど理解できるが、年越し派遣村のような事態を招いた根本要因は、派遣切り=ホームレスという図式を生んでしまった政治の無策にある。

セーフティネットの未整備、雇用のミスマッチ、政治の失敗

雇用のミスマッチの問題もある。派遣労働者の中には、工場を渡り歩くような生活に見切りをつけて、農業に従事できないかと考える若者も出てきた。一方、農業の現場は、これまで問題を先送りしてきた農政の無策によって、後継者不足と高齢化のために崩壊寸前だ。しかし、現状では、若者が農業に飛び込む道筋は全く見えてこない。驚いたことに、都会の若者が身ひとつで農村に飛び込んで農民になろうとしたら、当面の生活費や肥料、種、資材の費用として1000万円近くの資金が求められるという。電車賃も無くて遠隔地から日比谷の年越し派遣村まで歩いてきたというような若者たちにとっては、農業は、今や高値の花である。仕事と共に住む家まで無くして路頭に迷う若者が都会にはあふれるで一方で、農村や介護の現場では人手が足りなくて悲鳴が上がっている。こうしたミスマッチを埋めることができないのも政治の無策がもたらしたものである。

羊のように従う派遣労働者たち、自由からの遁走



先週、経団連の賀詞交換会が行われているホテルのパーティー会場にプロ左翼系の労組が派遣切りにあった若者たちを扇動して押し寄せるという出来事があった。

こうした行動は、プロ左翼たちの売名行為にはなっても、派遣労働者にとって何ら問題の解決にはつながらないだろう。彼らはプロ左翼の連中に羊のように従うのではなく、政治の失敗をもっと徹底的に検証し糾弾するべきだ。 しかし、現状は、明らかにそれとは逆の方向に進んでいる。政治の失敗、無策を糾弾するよりも、彼らの意識は、政府の保護、規制を求める方向に向かいがちだ。もちろん生活が立ちいかない人々には救いをさしのべる必要だろう。しかし「安全・安心」を求めんがために、行政による規制や保護を要求することは、自由を失うことと同義であることを承知しておく必要がある。

先のノーラン・チャートに政治思想をプロットしてみると右図のようになるだろうか。この図にそっていえば、自由から遁走することは、「ポピュリズム」に走ることであり、それは最終的にはファシズムに至る道である。ポピュリズムとファシズムが近いというと違和感を持つ人もいるかも知れないが、ファシズムとは、一般に思われているように、ヒトラーのような独裁者が、一方的に大衆を抑圧、支配することで成立するのではない。むしろその逆だ。大衆のほうから、むしろ進んで歓呼をもって独裁者を受け容れるものだということを歴史は教えている。残念ながら、今の日本は、そちらの方向に舵を切りつつあると実感している。

だいぶ、横道にそれたが、中谷巌の本の話に戻そう。

国を開き、希望を生み出す装置を

中谷が言っている「安全・安心」が、砂漠で見る蜃気楼のようなもので、実体のない理念だとしたら、私たちにとって本当に希求すべきこととは何だろう。

私は第一には、中谷のように「日本回帰」を志向するのではなく、むしろ果敢にこの国を開くことが必要と考えている。米国のような超大国でさえ、グローバル資本主義のモンスターに対しては無力であるとしたら、国内だけを見ていても、ほとんど解決の糸口さえ見えないだろう。全ての経済施策は、国家の枠組みを超えて、国際協調とグローバル化を前提に議論される段階にある。第二には、世界を襲っている100年に一度の厳しい現実を乗り越えていくためには希望が何よりも必要だ。今回の経済恐慌の震源地である米国では、金融システムだけでなく基幹産業である国内自動車産業の崩壊までが囁かれ、日本よりも数段苛酷な現実が進行している。しかし、米国の底力は、こうした苦況に及んでも、オバマのような指導者を選び出す政治の力があることだろう。暗いトンネルは今はじまったばかりで、これから世界は夜明けまでの最も暗い夜を耐え忍ばなければならない。政府も誰も助けてくれない暗闇をくぐり抜けていくために何よりも必要なのは「希望」を生み出す装置であることをアメリカ国民は知っているからこそオバマを選び出したのだ。

村上龍が2000年に上梓した小説「希望の国のエクソダス」に登場する主人公の少年が日本について語る有名なセリフがある。

「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。でも、希望だけがない」

我々がもしこの少年にどこかで出会ったら、一体どんな言葉をかけることができるだろう。「安全・安心」などとといったら、鼻で笑われるか、銃で撃ち殺されるのが関の山だ。

(カトラー)

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