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日本人は中東の国々から石油を売って貰っておきながら、ある時期までは買ってやっているのだと言わんばかりの態度を取り続け、まともな付き合いをしていなかった。
さすがに石油ショック(1973年)の時、三木武夫副総理があわてて中東歴訪をしたが、それっきり。
通産大臣{当時)が訪問する事はあっても外務大臣が中東を訪問した事は一回もなかった。
今から30年近く前、当時の福田赳夫内閣で、官房長官留任を希望しながら外務大臣に「飛ばされた」園田直(そのだすなお)氏がNHKから私を秘書官に招んでやろうとしたことは、前々内閣からの懸案だった日中平和友好条約の締結問題にケリをつけることと中東各国との関係緊密化であった。
このため1978年正月早々にモスクワを訪れて日中条約締結について了解を取り付を図り、その足で中東各国を廻ろうとした。
ところが日中関係緊密化に反対するソビエト(現ロシア)は日本財界を通じて圧力をかけてきた。
またアラブと対立するイスラエルは私を二番町の大使公邸に招待とは名ばかり「中東には外務大臣は公式訪問はしないほうがいいのじゃないか」と大使自らが圧力をかけてきた。
アメリカ一辺倒の日本外務省としては,反石油産出国イスラエル寄りのアメリカの鼻息をうかがっている限り、日本独自の石油外交の展開など考えた事もなかったのだ。
それを聞くと園田外務大臣は何も言わなかった。本当は「内政干渉だ」と怒るべきだったろうが、アジアの戦場で11年も戦ってきて最後は特攻隊の隊長。死ぬべき身が生き残った歴戦の勇士は逆に闘志を燃やすのだった。
1978年の1月、厳寒のモスクワで日ソ定期外相会談をやった後、一旦帰国、一日東京に居てすぐイランに飛び立った。失脚前のパーレビ国王と会談した後、エール・フランスの小型ジェット機をチャーターして出発した。
中東各国では一般の旅客機に王族が乗ってくるとその人数分だけ一般の客は降ろされてしまう仕来り。小型機ヲチャーターするしかなかった。クエート、アラブ首長国連邦、サウジアラビアを歴訪した。日本から外務大臣が中東を公式訪問するのはこれが初めてだった。
一体、石油とは日本にとって何でもなかった。アメリカと戦争を始める時、わが郷里・秋田や新潟などで石油が採れた。当時は自家用車など殆んど無い時代.それでも戦争をするにはアメリカから輸入した物を一年分ぐらい備蓄して始めた。
それで戦争に負けた後、日本復興を叫んだが、必要な石油をどこから確保するのか、関心を持つ日本人は殆んど居なかった。どこかから入ってくるものとみんなが理解していた。
実は戦争中は中東の石油はまだ発見されてなかった。その後、日本のエネルギーの殆んどは中東に依存していたのである。それを日本人は関心を持たなかった。
それが証拠に、昭和47(1972)年に発表されて田中角栄氏を総理の座に祭りあげた「日本列島改造論」でも改造の石油をどこから確保するかは一行も触れられていない。カネさえ払えば石油は中東から自動的に入って来る、ぐらいの認識だったのである。
ある国で、道端の花壇に水をかけている人、あれは閣僚クラスなのだとわが大使館員の説明。なぜって、ここでは水は石油よりも高価な資源。それをばら撒くのだから担当に高官が当たるのが当然でしょう、との説明だった。
部族と言う物が大変な国民区別の識別標になっている。日本人が見たって判らないが、現地の人たちには一目瞭然らしい。要は山あり谷ありだったから土地、土地に分かれて部族が成立していた。
ところが乾燥で林が消えてしまった。それで却って区別意識が顕在化したものと思える。気候風土の違いで宗教心も異なっていたのに、いきなり沙漠化して一緒くたになったので、宗教の違いだけが浮き立ったので宗派の違いが対立となって残った。
それにしても中東は眩しい。スモッグが無いから目を開けていられないくらいまぶしい。みな睫が長いわけだ。一月だと言うのに気温は30度を越している。
2日前まで厳寒のモスクワにいた身は日乾しになりそうだった。加えてアルコールが禁止されている。モーゼの教えなのだ。イランでは呑めたのがサウジアラビアでは外国人といえども禁酒。外国人が酒を呑んでいる事を知りながら申告しなかった人は罰せられるとのこと。これには参った。
時々奇妙な叫びが町の高いところに設けられたスピーカーから流れる。コーラン。買い物の途中でもそれが始まると中断だ。そばに女性らしい人が何人かいるがズタ袋のようなものを被っているから女性とはわからない。
水と緑の瑞穂の国と水も緑も無い中東。
ある夜、砂漠で一人になる出来事に遭った。明りが一つも無い。聞こえる物は風ばかり。光は遠い星のみ。私は近くに車を待たしているからいいが、これをラクダで旅をしている人が一旦、砂塵にみまわれたらどうなるだろう、民主主義も人権も後回しになるだろうな、と思った。アメリカの中東民主主義支配は至難の業となろう。
後に外務次官やアメリカ大使になる人がクエートのホテルである朝、奇声を発して逃げ回っていた。「アイ・ラヴ・ユー」追い掛け回しているのはむくつけき男性。髭の剃り跡も青々とした彼だが鼻髭が無い。
私はホモですとの合図に見えるらしい。それで求愛されたのだ。日本人は笑うが現地では深刻な話なんだそうだ。イラク先遣隊の佐藤隊長が髭で人気になったと言うのはこのあたりに理由がある。
男性も履いているスカートみたいなズボン。歩けばあの中は砂塵だ。砂がこびついたといっても水が無いから洗えない。割礼は当然なのだ。女性もそれに対応した措置をしなければなるまい。そこを日本人は知ろうともしないから困る。
園田事務所を通じ手知り合った江崎秀隆さんは国際交流の仕事を主として東南アジアと中東を相手にしており、忙しく国を出たり入ったりしている。たまたま日本にいるこの時期、メイルを打って来て「自衛隊のイラク派遣は『吉』と出そうだ」と言ってきた。
その第一は人種差別の事。中東の人たちは西欧で人種差別を厭と云うほどされているが日本人はそれを露骨にはしないので、日本人に好意を持っている。オマーンから来た青年は「ロンドンでは私がバスや地下鉄で席に座るとイギリス人はスーと立っていった。日本人はそんな事はしない」のだそうだ。
第二は宗教。西洋人はイスラム教を親の仇と思っている。その昔、イスラム教を征伐するために十字軍を派遣したくらいだ。だが日本人はいわば多神教。仏の上に神棚を据えて両方を拝んでいる。
中東へ派遣された日本の技術者がいきなりアラーの祈りをして見せて現地人を感激させた。自衛隊の中東派遣に最後まで渋った創価学会もその理由が宗教上の対立からが理由でなかったと知ったら、どうだろう。アラブの人々は日本人を宗教上の敵とは思ってない。
第三は、日本人は誠実で真面目で勤勉であり、平等意識を持っている。だからアラブの人々に好かれる。例えばいくらフセインが嫌いでも、アメリカ軍の拘束直後の仕打ちはイラクの人々のプライドと言うものを傷つける。
あの単細胞ぶりがイラクに受け入れられることは絶対に無い。しかし自衛隊には細やかな心遣いがあり、絶対イラクの人々に受け入れられるはずだと江碕さんは言う。
アメリカという国は単細胞なところが多い。つまらぬことをやって相手の極端な反感を買いながらそれに何時までも気がつかない。それでいて「人間の営みには絶対の正義がある」を信条としている。それだからハンチントン教授が折角「文明の衝突」を著して中東文明との衝突を警告したのに、それをいちばん理解できないのがアメリカなのではないか。
「私の研修員も誇り高いアラブ人でした。空港まで見送りに行った時、やおらオーバーを脱ぎ、江碕さん、お世話になりました。母国(くに)では暑くてこれは要りませんので置いて行きます。ここにある物は皆、あなたの物ですから」と言って出て行った。妙なことを云っていたなと、帰ってそのポケットをみたら硬貨が山のように入っていた」。
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日本人は中東の国々から石油を売って貰っておきながら、ある時期までは買ってやっているのだと言わんばかりの態度を取り続け、まともな付き合いをしていなかった。
さすがに石油ショック(1973年)の時、三木武夫副総理があわてて中東歴訪をしたが、それっきり。
通産大臣{当時)が訪問する事はあっても外務大臣が中東を訪問した事は一回もなかった。
今から30年近く前、当時の福田赳夫内閣で、官房長官留任を希望しながら外務大臣に「飛ばされた」園田直(そのだすなお)氏がNHKから私を秘書官に招んでやろうとしたことは、前々内閣からの懸案だった日中平和友好条約の締結問題にケリをつけることと中東各国との関係緊密化であった。
このため1978年正月早々にモスクワを訪れて日中条約締結について了解を取り付を図り、その足で中東各国を廻ろうとした。
ところが日中関係緊密化に反対するソビエト(現ロシア)は日本財界を通じて圧力をかけてきた。
またアラブと対立するイスラエルは私を二番町の大使公邸に招待とは名ばかり「中東には外務大臣は公式訪問はしないほうがいいのじゃないか」と大使自らが圧力をかけてきた。
アメリカ一辺倒の日本外務省としては,反石油産出国イスラエル寄りのアメリカの鼻息をうかがっている限り、日本独自の石油外交の展開など考えた事もなかったのだ。
それを聞くと園田外務大臣は何も言わなかった。本当は「内政干渉だ」と怒るべきだったろうが、アジアの戦場で11年も戦ってきて最後は特攻隊の隊長。死ぬべき身が生き残った歴戦の勇士は逆に闘志を燃やすのだった。
1978年の1月、厳寒のモスクワで日ソ定期外相会談をやった後、一旦帰国、一日東京に居てすぐイランに飛び立った。失脚前のパーレビ国王と会談した後、エール・フランスの小型ジェット機をチャーターして出発した。
中東各国では一般の旅客機に王族が乗ってくるとその人数分だけ一般の客は降ろされてしまう仕来り。小型機ヲチャーターするしかなかった。クエート、アラブ首長国連邦、サウジアラビアを歴訪した。日本から外務大臣が中東を公式訪問するのはこれが初めてだった。
一体、石油とは日本にとって何でもなかった。アメリカと戦争を始める時、わが郷里・秋田や新潟などで石油が採れた。当時は自家用車など殆んど無い時代.それでも戦争をするにはアメリカから輸入した物を一年分ぐらい備蓄して始めた。
それで戦争に負けた後、日本復興を叫んだが、必要な石油をどこから確保するのか、関心を持つ日本人は殆んど居なかった。どこかから入ってくるものとみんなが理解していた。
実は戦争中は中東の石油はまだ発見されてなかった。その後、日本のエネルギーの殆んどは中東に依存していたのである。それを日本人は関心を持たなかった。
それが証拠に、昭和47(1972)年に発表されて田中角栄氏を総理の座に祭りあげた「日本列島改造論」でも改造の石油をどこから確保するかは一行も触れられていない。カネさえ払えば石油は中東から自動的に入って来る、ぐらいの認識だったのである。
ある国で、道端の花壇に水をかけている人、あれは閣僚クラスなのだとわが大使館員の説明。なぜって、ここでは水は石油よりも高価な資源。それをばら撒くのだから担当に高官が当たるのが当然でしょう、との説明だった。
部族と言う物が大変な国民区別の識別標になっている。日本人が見たって判らないが、現地の人たちには一目瞭然らしい。要は山あり谷ありだったから土地、土地に分かれて部族が成立していた。
ところが乾燥で林が消えてしまった。それで却って区別意識が顕在化したものと思える。気候風土の違いで宗教心も異なっていたのに、いきなり沙漠化して一緒くたになったので、宗教の違いだけが浮き立ったので宗派の違いが対立となって残った。
それにしても中東は眩しい。スモッグが無いから目を開けていられないくらいまぶしい。みな睫が長いわけだ。一月だと言うのに気温は30度を越している。
2日前まで厳寒のモスクワにいた身は日乾しになりそうだった。加えてアルコールが禁止されている。モーゼの教えなのだ。イランでは呑めたのがサウジアラビアでは外国人といえども禁酒。外国人が酒を呑んでいる事を知りながら申告しなかった人は罰せられるとのこと。これには参った。
時々奇妙な叫びが町の高いところに設けられたスピーカーから流れる。コーラン。買い物の途中でもそれが始まると中断だ。そばに女性らしい人が何人かいるがズタ袋のようなものを被っているから女性とはわからない。
水と緑の瑞穂の国と水も緑も無い中東。
ある夜、砂漠で一人になる出来事に遭った。明りが一つも無い。聞こえる物は風ばかり。光は遠い星のみ。私は近くに車を待たしているからいいが、これをラクダで旅をしている人が一旦、砂塵にみまわれたらどうなるだろう、民主主義も人権も後回しになるだろうな、と思った。アメリカの中東民主主義支配は至難の業となろう。
後に外務次官やアメリカ大使になる人がクエートのホテルである朝、奇声を発して逃げ回っていた。「アイ・ラヴ・ユー」追い掛け回しているのはむくつけき男性。髭の剃り跡も青々とした彼だが鼻髭が無い。
私はホモですとの合図に見えるらしい。それで求愛されたのだ。日本人は笑うが現地では深刻な話なんだそうだ。イラク先遣隊の佐藤隊長が髭で人気になったと言うのはこのあたりに理由がある。
男性も履いているスカートみたいなズボン。歩けばあの中は砂塵だ。砂がこびついたといっても水が無いから洗えない。割礼は当然なのだ。女性もそれに対応した措置をしなければなるまい。そこを日本人は知ろうともしないから困る。
園田事務所を通じ手知り合った江崎秀隆さんは国際交流の仕事を主として東南アジアと中東を相手にしており、忙しく国を出たり入ったりしている。たまたま日本にいるこの時期、メイルを打って来て「自衛隊のイラク派遣は『吉』と出そうだ」と言ってきた。
その第一は人種差別の事。中東の人たちは西欧で人種差別を厭と云うほどされているが日本人はそれを露骨にはしないので、日本人に好意を持っている。オマーンから来た青年は「ロンドンでは私がバスや地下鉄で席に座るとイギリス人はスーと立っていった。日本人はそんな事はしない」のだそうだ。
第二は宗教。西洋人はイスラム教を親の仇と思っている。その昔、イスラム教を征伐するために十字軍を派遣したくらいだ。だが日本人はいわば多神教。仏の上に神棚を据えて両方を拝んでいる。
中東へ派遣された日本の技術者がいきなりアラーの祈りをして見せて現地人を感激させた。自衛隊の中東派遣に最後まで渋った創価学会もその理由が宗教上の対立からが理由でなかったと知ったら、どうだろう。アラブの人々は日本人を宗教上の敵とは思ってない。
第三は、日本人は誠実で真面目で勤勉であり、平等意識を持っている。だからアラブの人々に好かれる。例えばいくらフセインが嫌いでも、アメリカ軍の拘束直後の仕打ちはイラクの人々のプライドと言うものを傷つける。
あの単細胞ぶりがイラクに受け入れられることは絶対に無い。しかし自衛隊には細やかな心遣いがあり、絶対イラクの人々に受け入れられるはずだと江碕さんは言う。
アメリカという国は単細胞なところが多い。つまらぬことをやって相手の極端な反感を買いながらそれに何時までも気がつかない。それでいて「人間の営みには絶対の正義がある」を信条としている。それだからハンチントン教授が折角「文明の衝突」を著して中東文明との衝突を警告したのに、それをいちばん理解できないのがアメリカなのではないか。
「私の研修員も誇り高いアラブ人でした。空港まで見送りに行った時、やおらオーバーを脱ぎ、江碕さん、お世話になりました。母国(くに)では暑くてこれは要りませんので置いて行きます。ここにある物は皆、あなたの物ですから」と言って出て行った。妙なことを云っていたなと、帰ってそのポケットをみたら硬貨が山のように入っていた」。
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